夜中になっても寝付けないシンジは、暗い部屋の中で音楽を聴いていた。その時、イヤホンから流れる音色を飛び越えて、ドアの開く音が聞こえる。シンジはとっさに反応して停止ボタンを押す。気配を伺っていると、どうやら隣の部屋で寝ていたアスカが手洗いに入ったようだった。近づいてくる足音を狸寝入りでやり過ごそうとしたシンジは、布団に何かが落ちた振動で目を開ける。すると、目の前に無防備な胸元と唇を晒したアスカの寝顔が飛び込んできた。
赤面して戸惑うシンジ。動揺してスイッチを押したプレイヤーから、高速で撒き戻されるメロディーが聞こえる。シンジは、男の衝動を抑えきれずにアスカの唇へ向かう。しかし、肌が触れ合う直前の距離で、アスカが「ママ……」と言って涙を浮かべていることに気づいてしまう。我に帰ったシンジは、アスカとの距離を空けて「自分だって子供のくせに……」と言うと、布団をかぶって寝ることにした。
ドイツから来たというその少女は、風に飛ばされたトウジの帽子を踏みつけて、声高らかにミサトを呼んだ。
「ハロー、ミサト。元気してた?」
「まぁねー、あなたも背伸びたんじゃない?」
帽子を取り戻そうとするトウジの存在を1ミリも意に介さないまま、アスカは自分の成長をアピールする。
「そ、他の所もちゃーんと女らしくなってるわよ」
ミサトは彼女と引き合わせるためにシンジをそこへ連れてきたのだった。
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機の専属パイロット。〈セカンドチルドレン〉惣流・アスカ・ラングレーよ」
――傲慢、高飛車、生意気、変り者、ワガママ、見栄っ張り、冷淡、二重人格、バームクーヘン、薄情者、自意識過剰、いけ好かん女、いやーんなカンジ。
エヴァのパイロットとしての自信を完全に無くしてしまったアスカは、失踪した後、廃墟のバスユニットの中で希望を失っていた。
どこからか聞こえるカヲルの声。
「怖いのかい? 人と触れ合うのが。他人を知らなければ裏切られることも、互いに傷つくこともない。でも、寂しさを忘れることもないよ。人間は寂しさを永久に無くすことはできない。人は一人だからね。ただ忘れることができるから、人は生きて行けるのさ。常に人間は、心に痛みを感じている。心が痛がりだから、生きるのが辛いと感じる」
裸のまま壊れたバスユニットの中で空を見上げるアスカの元に、NERVへ連れ戻そうとする諜報員が現れる。
「どうだ? 碇シンジ君は」
甲板の踊り場で、加持は潮風に吹かれながら手すりにもたれていた。
「つまんない子。あんなのが選ばれたサードチルドレンだなんて、幻滅」
アスカは手すりに体を預け、両脚を遊ばせながら不満を漏らす。
「しかし、いきなりの実戦で、彼のシンクロ率は、40を軽く超えてるぞ」と加持は言う。
「シンクロ率ゼロ……」
精神的に追い詰められたアスカは、強気だった頃の自分の姿を思い出す。
「サードチルドレン!」
エスカレーターの上でシンジに立ちはだかるアスカ。
「セカンドチルドレンたる自覚なし……」
廃墟で虚ろな目をするアスカ。
「ちょっと付き合って」
頼りないサードチルドレンを自分の愛機に引き合わせるアスカ。
「赤いんだ弐号機って。知らなかったな」
シンジは、アスカの気を損ねないように言葉を選ぶ。
腰に手を置いて弐号機の上に立ったアスカは、足元に小さく見えるシンジに向かって熱弁する。
「所詮、零号機と初号機は、開発過程のプロトタイプとテストタイプ。訓練無しのあなたなんかにいきなりシンクロするのがそのいい証拠よ」
アスカは、きょとんとした表情のシンジに、自分の誇りを振りかざすかのように手を広げて見せる。
「けどこの弐号機は違うわ。これこそ実戦用に作られた、世界初の本物のエヴァンゲリオンなのよ。正式タイプのね」
その時、アスカたちの乗った空母を大きな揺れが襲う。
「あ、うわ、なんだろう」
戸惑うシンジに向かって主張するようにアスカが声を上げる。
「水中衝撃波! 爆発が近いわ……」
海の上では、謎の水しぶきがエヴァ弐号機を輸送中の艦隊に次々と襲い掛かり、味方の船を沈めていた。第6使徒ガギエルである。突然の敵襲に対して、弐号機を発進させるアスカ。真紅の機体が宙を舞い華麗に空母へ飛び移ると、巨大な使徒を一点に受け止める。足を滑らせ、そのまま水中戦へなだれ込んだ弐号機。結局、機体をつなぎ止めるケーブルを使って使徒を誘導し、「戦艦によるゼロ距離射撃」でこれを殲滅。
次の戦闘においても、弐号機は素早い動きで第7使徒イスラフェルを一刀両断する。
その後、浅間山火口の使徒殲滅でも活躍を見せる弐号機。
第14使徒ゼルエルとの死闘では、強力な火力を見せつけ応戦するも惨敗。
第15使徒アラエルの精神汚染によって完全に制御不能に陥る。この戦いで自信を失ったアスカはその後、エヴァを動かすことができなくなる。
「シンジ! グーテンモーゲン」
明るい声で登校中のシンジを、アスカが呼び止める。
「グ、グゥテルモルゲン……」
シンジは、その声を聞いて恐る恐る顔を振り向けた。
「まーた朝から辛気臭い顔して、このあたしが声を掛けてるのよ! ちったぁ嬉しそうな顔しなさいよ」
アスカはそう言うと、シンジの額にデコピンを入れた。
「で、ここに居るんでしょ。もう一人」
シンジは、アスカの質問に寝ぼけた声で返す。
「誰が?」
「あんたバカぁ? ファーストチルドレンに決まってるじゃない」
シンジの鈍い反応に腹を立てて、アスカは陸橋の下りエスカレーターの乗り場で立ち止まった。進路を塞がれたため、シンジの後ろに生徒たちの渋滞が発生する。
「あぁ、綾波なら……」
そう言ってシンジが視線を向けた先に、木陰で一人読書をするレイの姿があった。
「ハロー! あなたが綾波レイね。プロトタイプのパイロット」
植木のある高台に上ったアスカは、レイを見下ろして自信を全開にして振舞う。
「あたしアスカ。惣流・アスカ・ラングレー。エヴァ弐号機のパイロット。仲良くしましょ」
積極的な女をちらっと確認すると、レイは本に視線を戻しながら言う。
「どうして?」
「その方が都合がいいからよ。色々とね」
温度の低い対応をされても、アスカは全く動じない。
「命令があればそうするわ」
レイは手にした本から視線を外ずにそう答えた。意外な反応を見せる少女に、アスカは肩透かしをくらった気になる。
「変わった子ね……」
いつもよりも賑やかな午後。クラスメイトのトウジ、ケンスケ、委員長の洞木ヒカリ、そしてレイがミサトの家に集い、シンジとアスカの特訓を見守っていた。シンジとアスカは、リビングに広げられた音の出るマットの上で奮闘している。
「で、ユニゾンは上手く行ってるんですか?」
リラックスした姿勢で足を崩したヒカリは、ペンペンを抱きながら言った。
「それは見ての通りなのよ」
テーブルの上に頬杖をついたミサトは、ぎこちないリズムが鳴る方へため息顔を向ける。それに釣られて肩を落とす一同に向かって、アスカがヘッドホンを投げつける。
「あったりまえじゃない! このシンジに合わせてレベル下げるなんて、上手く行くわけないわ! 土台無理な話なのよ」
アスカは怒鳴りながら、マットの上にへたり込んだシンジを指差す。不満を爆発させるアスカを見て、ミサトは仕方がないわね、という表情を浮かべる。
「レイ」
「はい」
「やってみて」
唖然とするアスカを前にして、完璧にユニゾンする二人。マットの上では、シンジとレイがピッタリと息の合った音を奏でていた。
「もう、私がいる理由もないわ……誰も私を見てくれないもの」
自信を失ったアスカが言う。
「私は人形じゃない」
レイの言葉が響く。
「シンクログラフ、マイナス12.8。起動指数ギリギリです」
モニターに映る数値を見ながらマヤが報告する。
「酷いものね……昨日より更に落ちてるじゃない」
アスカの成績に表情を曇らせるリツコ。
「アスカは今日調子悪いのよ。2日目だし」
ミサトは冷静さを装ってアスカを庇う。しかし、リツコは事態を現実的に受け止めた判断を口にする。
「シンクロ率は表層的な身体の不祥に左右されないわ。問題はもっと、深層意識にあるのよ」
「アスカのプライド、ガタガタね」
リツコらしいドライな発言に、ミサトも本音を漏らす。
「無理ないわよ。あんな負け方しちゃ、っていうよりシンジ君に負けたと思い込んでる方が大きいわ」
アスカは怪訝な表情を浮かべてエレベーターの扉の前に立っていた。到着のベルが鳴ってドアが開くと、アスカは先客がいるのを見て一瞬たじろぐも、自分の気持ちを押し殺してスタスタと中へ入る。
カチカチと階を進めるカウンターが音を立てる中で、アスカは無言のまま腕を組んで奥の壁に寄りかかっている。ドアの前にはレイが立っていた。レイはドアを平面を見つめたまま微動たりとも動かない。
エレベーターの中はすぐに沈黙で満たされていった。アスカは鼻をすすって沈黙を蹴散らそうとするが、また長い沈黙に入る。十分に沈黙が満たされようとしたとき、意外にも先に口を開いたのはレイの方だった。
「心を開かなければ、エヴァは動かないわ」
その言葉を跳ね返すように、アスカが言い返す。
「心を閉ざしてるって言うの? この私が!?」
「そう。エヴァには心がある」
ドアを見つめたまま、レイは背中越しに話す。アスカはレイの背中に向かって勢い良く言葉をぶつける。
「あの人形に?」
「分かってるはずよ」
「あんたから話掛けてくるなんて、明日は雪かしらね」
「……」
自分の思ったとおりに反応しないレイに苛立ったアスカは、自分が抱えている不安を不器用に爆発させる。
「なによ! あたしがエヴァに乗れないのが、そんなに嬉しい? 心配しなくても使徒が攻めてきたら、無敵のシンジ様がやっつけてくれるわよ! 私たちは何もしなくてもいいのよ!」
振り向かないレイを炊きつけようとするアスカ。
「あーあ。シンジだけじゃなく、機械人形みたいなアンタにまで同情されるとは、私もヤキが回ったわね」
レイはドアを見つめたまま最低限の言葉を口にする。
「私は人形じゃない」
「うるさいっ! 人に言われたまま動くクセに! あんた碇司令が死ねと言ったら死ぬんでしょ」
感情的になるアスカに対して、レイは低い温度のまま言う。
「そうよ」
「おはよう」
薄暗い講堂の中でパイプ椅子に座っていたシンジは、光が差し込む出入り口に現れた二人目の少女に声を掛ける。
同じく、第三中学校講堂内。
ヴィオラ――第三絃。
演奏練習開始。
五分四十三秒秒前。
無言のまま席に着いた青い髪の少女は、自分の楽器をケースから取り出すと、早速音を確かめる。
調絃。
その少女の奏でる音色を聞いて、不思議な感覚と不安に包まれるシンジ。