リツコの仕事用の机には二匹の黒猫の置物が置かれている。気の利いたものはそれぐらいで、あとは吸殻で一杯の灰皿と、コーヒーの入ったマグカップくらいだった。
「ちょっと痩せたかな? リっちゃん」
加持は作業中のリツコを後ろから抱きしめると、耳元で優しく囁いた。
「残念、1570グラム、プラスよ」
リツコは一瞬驚いてから、直ぐに誰だか察知して肩の力を抜く。
「肉眼で確認したいな」
加持はリツコの頬に手を当てて、自分の顔の方に向ける。
「いいけど……この部屋、記録されているわよ」
リツコは少し声を低くして答える。
「ノン・プロブレム。すでにダミー映像が走ってる」
「相変わらず用意周到ね」
「負け戦が嫌いなだけさ」
いつまでも身を引かない加持に対して、リツコはガラス窓の方に視線を送って見せる。
「でも、負けよ。怖ーいお姉さんが見ているわ」
それを聞いた加持が窓の外を見ると、ミサトが廊下側からガラスに張り付いて鼻息を荒くしている姿が見えた。
「リョウちゃん、お久しぶり」
リツコは体を離した加持に、なんでもなかったような声を掛ける。
「や、しばらく」
加持はいつものことのように、しれっとした態度でやり過ごす。
「なんでアンタがココにいるのよぉ! ユーロ担当でしょっ!」
ドアが開くと、ミサトがツカツカと音を立てて部屋に入ってきた。
「特命でね……しばらく本部付さ。また三人でつるめるな、学生の時みたいに」
加持はリラックスした雰囲気で、リツコの机の横に腰を下ろす。
「昔に帰る気なんてないわよ! 私はリツコに用事があっただけなの! アスカの件、人事部に話し通しておいたから。じゃっ」
ミサトはピリピリした空気で、早口で用件を伝えると、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「ミサト、あからさまな嫉妬ね。リョウちゃん、勝算はあるわよ」
リツコは、ミサトの態度を見て加持に話を振る。
「さて、どうだろうなぁ」
加持は両手を広げておどける。
※ ※ ※ ※ ※
夕方。帰宅途中のシンジは道路を歩きながら、今日であった少女のことを思い出していた。
「式波・アスカ。エヴァに乗ってて嬉しい人もいるんだ……」
ミサトの家に着いたシンジは、いつも通りのつもりで玄関のドアを開けた。
「ただいまー……って、なんだこれ! 僕の部屋が……」
シンジは自分の部屋が見知らぬダンボールで埋まっている光景を見て唖然とする。
「失っ礼ねっ! 私の荷物よ」
キッチンの方から姿を現したアスカは、瓶に入ったドリンクをゴクゴクと飲み干す。
「じゃ僕の……あれ? なんで式波がここにいんの?」
間の抜けた表情をして驚いているシンジに向かって、アスカは聞こえるように大きなため息をはく。
「あんたバカぁ? あんた、お払い箱って事よ。ま、どっちが優秀かを考えれば当然の結論ね」
アスカはシンジの立っている方に近づいて、部屋の入り口に肘をついて寄りかかる。
「そんな……」
「しかし、どーして日本の部屋ってこう狭いのかしら。荷物の半分も入り切らなかったわ。おまけに、どうしてこう日本人て危機感足りないのかしら。よくこんな鍵のない部屋で暮らせるわね。信じらんない」
アスカは部屋の扉を何度も動かしながら、自分の不満を遠まわしにシンジにぶつけるようにして言う。
「日本人の心情は察しと思いやりだからよ」
いつの間にか帰宅していたミサトが、二人の背後から声を掛ける。
「うわあぁぁぁ」
シンジとアスカは驚いて二人同時に壁の方へ身を引く。
「ミ、ミサトさん……」
シンジがほっとして声を上げると、アスカはシンジをジロリと見て「うっとおしいわね。ゴミと一緒にさっさと出ていきなさいよ」と言う。
しかし、ミサトは「あら、シンちゃんもここに残るのよ」とあっさり告げる。
「えぇえっ!」
アスカはシンジの肩越しに身を乗り出して、あからさまに嫌な顔をする。
「アスカとシンちゃんに足りないのは、適切なコミュニケーション。同じパイロット同士、同じ釜の飯を食って仲良くしないとね」
ミサトは二人を前に立たせて、これからやろうとしていることを説明する。その話を聞いて、シンジは気まずそうにアスカの表情を伺う。
「ふんっ」
アスカはシンジから顔を背ける。
「これは命令よ」
ミサトは苦笑いしながら二人を納得させようとする。
※ ※ ※ ※ ※
その日の夜。第3新東京市は静かだった。レイは自室で一人きり、電気も点けないまま月明かりに照らされていた。彼女は、〝NERV ONLY〟と書かれた薬の袋からカプセルを取り出して眺める。
※ ※ ※ ※ ※
「はい! みんなで一緒にー、ご馳走様でしたっ」
夕食を済ませた三人は、ミサトの家で新たな生活を始めたところだった。
「っぷっはー! っくぅぅぅっ! やっぱひとっ風呂浴びた後のビールは最高ねぇ」
ラフな部屋着に着替えたミサトは、自分のペースで至福の一時を過ごす。
「クワッ」
風呂上りのペンペンが羽をバタつかせて水しぶきを飛ばす。
「きゃぁぁぁーっ!」
それと同時にアスカが叫び声を上げる。
「な、なななんか変な生き物がお風呂にいるーっ」
全裸のまま脱衣所のカーテンを開けてダイニングに飛び出したアスカは、必死になってミサトに驚きを伝える。
「ははっ。ペンギンって言う鳥だよ。名前はペンペン……」
シンジはもうすっかり慣れた様子で説明してみせる。洗い場に向かっていたシンジは、そう言ってアスカの方へ振り返り言葉を止める。
「あっ……」
シンジの顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「ん?」
アスカは何も身に着けていない自分の姿に気づいて、一瞬恥ずかしさを覗かせたあとに、怒りがそれを上書きする。
「ってぃやぁーっ! このエッチ! バカ! 変態! 信じらんないっ!」
アスカは裸のままシンジに飛び蹴りを食らわせると、完全に伸びてしまったシンジに罵倒を浴びせて更衣室へと戻っていく。
「二人とも素直になってきて、いい傾向じゃない。ねぇペンペン」
ミサトは二人のやりとりを見守りながら、ビールをストローで飲んでいるペンペンの方を見る。
一騒動が終わり、それぞれが部屋に戻って夜に静けさが戻る。ミサトは一升瓶を抱えたまま、物凄い寝相でいびきを掻いていた。
「あいつらとは違ーう。私は特別。だから、これからも……一人でやるしかないのよ、アスカ」
アスカはベッドの上で寝転んで、手に女の子のパペットをはめて独り言をつぶやいていた。
シンジは、荷物だらけになった部屋でダンボールに囲まれるようにして布団に寝そべっていた。音楽プレイヤーをつけていたが、なかなか寝付けないシンジは、ふいに起き上がって携帯で電話を掛ける。コール音が何度か繰り返される。シンジは直ぐに諦めて電話を切る。
「やっぱり出ないや……父さん」
※ ※ ※ ※ ※
第3新東京市が新しい朝を迎えた。山のふもとから太陽が顔を出すと、集光システムが備え付けられたビルが稼動を開始する。
街が動き始めた。河川敷を走るランナーの姿。稼動するモノレール。出勤する人々。背後にジオフロントに収納されていたビル群が伸びていく。
NERV本部に向かうマヤの姿があった。シンジは通学路でトウジとケンスケに合流する。教室に集う生徒たち。シンジはふとレイの姿を見る。レイは一人静かに勉強机に肘をついて、窓の外を眺めていた。今度はアスカに目を向ける。アスカはポータブルゲームに夢中。男子に話しかけられると、蹴り飛ばして追い払った。
※ ※ ※ ※ ※
「社会科見学? 加持が?」
帰宅したシンジは、ビール片手にくつろぐミサトに話をする。
「ええ。みんなのことも誘うといいって」
シンジはダイニングテーブルの上に鞄を置いて荷物を整理していた。
「アイツに関わると、ロクなことないわよ」
ミサトは持っていたビールの缶をテーブルに叩きつける。
「じゃあ、私パース」
隣の部屋からアスカが声を上げる。
「だめよー。和をもって尊しとなーす。アスカも行きなさい」
ミサトはアスカも参加するように促す。
「……それも命令?」
アスカはプレイ中のゲームを持ちながら、不満そうな顔を覗かせる。
※ ※ ※ ※ ※
その頃、ゲンドウと冬月は、月面に展開するSEELE関連施設の上空を飛んでいた。
「月面のタブハベースを目前にしながら、上陸許可を出さんとは……ゼーレもえげつないことをする」
「〝Mark.06〟の建造方式は他とは違う。その確認で充分だ」
ゲンドウは流れに逆らわずに落ち着いた態度で話す。
「しかし、5号機以降の計画など無かったはずだぞ?」
ゲンドウと冬月は、宇宙船の小さな窓から月面の様子を覗き見ながら話す。そこでは、〝Mark.06〟と呼ばれるエヴァに拘束具を取り付ける作業が行われていた。
「おそらく、開示されていない死海文書の外典がある。ゼーレは、それに基づいたシナリオを進めるつもりだ」
「だが、ゼーレとて気づいているのだろう。ネルフ究極の目的に」
二人の乗った宇宙船の前を、ロンギヌスの槍を運ぶ巨大な輸送船が通り過ぎて行く。
「そうだとしても、我々は我々の道を行くだけだ。例え、神の理と敵対することになろうとも」
その時、ゲンドウはエヴァの指の上に座っている少年の姿を確認する。少年は上半身裸の状態で、宇宙空間に存在していた。
「人か? まさかな……」
冬月もゲンドウが見ている方を確かめる。
「初めまして、お父さん」
月面の棺から目覚めた少年・渚カヲルは、ゲンドウたちが乗る宇宙船を見てそっとつぶやく。