シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のストーリーとセリフ / EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME

シン・ヱヴァンゲリヲン新劇場版:FINAL タイトル

 プラグスーツ姿の少年が赤い大地を放浪していた。碇シンジは、先行するアスカとレイの背中から距離を置いて、無言で最後尾を歩く。

 終末めいた景色が視界の限り広がっていた。動かなくなったエヴァの機体や、中空に渦巻く瓦礫や車輌の残骸が、至る所に散見された。

 まるで生き物だけが抜き取られたかのような世界で、人工的な構造物だけが存在感を際立たせていた。人為の成れ果て、あるいは人の世の極地。それは美しくもあり凄惨で過酷な光景だった。

 アスカは小型端末で方角を見定めると、目的地へ向かって足を進めた。三人の中で、彼女だけが意志を残しているように見えた。レイは無垢な従者、シンジは――抜け殻だった。

 夕暮れに染まる街が影を濃くする頃、シンジは自動販売機に背を向けて道端でうなだれていた。アスカは生気のないその顔を掴んで、険しい目で睨む。彼女の左目は眼帯で覆われたままだ。

「チッ、根性なしが」

 すると車の走行音が近づいてきて、三人をヘッドライトで照らした。四輪駆動の軽自動車が直前で止まると、運転席から全身防護服姿の人物が降りてきた。

「悪い。遅くなった。大丈夫か? 碇――」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

「――はっ」

 シンジが目を覚ますと、知らない幼児と犬が覗き込んでいた。犬は人に慣れた様子で嬉しそうに吠え、幼児は無邪気に見知らぬ来訪者に好奇心を抱いているようだった。

「こら! 犬はそっから先入ったらあかんぞ」

 視界の外から男の声が飛んだ。気配が近づいて、折り目のカーテンが引かれると、白衣姿の男が現れた。

「おお、気ぃついたか。分からんか? ワシやワシ! トウジ、鈴原トウジや。ほんまに久しぶりやの、シンジ」

 トウジは温和な笑みを浮かべて、腕に抱いている幼児を持ち上げた。シンジの意識は切れ切れになりながらも、彼の人となりを捉えている。

「お前が運び込まれてきたときは、びっくりしたでぇ」

 トウジは患者を問診するようにペンライトを掲げて、旧友に語りかける。彼は大人になり、シンジは少年のままだった。

「まあ多少、事情は聞いとるが、けったいな話でよう分からん。とにかく元気そうで何よりや。どや? もう動けるか?」

 シンジは気だるそうにゆっくりと体を起こした。そこは板張りの内装がむき出しの、倉庫のような病室だった。

「行けそうやな。ほなら家へ行こか。腹も減っとるやろ」

 トウジはシンジに上着を着せてやり、兄のように語りかける。

「外はちょっと寒いからな」

 診療所の玄関に移動すると看護師が声を上げた。

「先生、その子、着替えたくないそうですよ」

 言われた方を見ると、黒いプラグスーツ姿のレイが犬の前に屈み込んでいる姿があった。彼女は物珍しそうに治療中の保護具をつけた犬を眺めている。

「ま、そのままでもええやろう」

「あとタミフルがもう無くなりそうです」

「分かった。分配長に相談しとく。すまんが、今日はこれで上がらせてもらうわ。ほな行こうか」

 

 シンジは外に出てからも一言も発しなかった。目を伏せて軒下の陰を歩いていると、ふいに西日が横から差した。

 シンジは我に返り、視線を光の方に向けた。

 機械仕掛けのレールが音を立てて作動し、地面と一緒に回り始めた。転車台のある風景だ。その先には、いくつもの線路と列車と家屋、そして人々の営みが見えた。

「ここ、不思議。人がいっぱいいる」

 レイは、その光景を目の当たりにして率直な感想を口にした。コンテナやトタン屋根の倉庫が、柔らかい夕日に照らされてオレンジ色に染まっている。そこは海岸線沿いの集落で、丘の上には仮設住宅が立ち並んでいた。

「なんや、人混みは初めてか。ここはあちこちの生き残りが集まった集落の一つ、第3村や。千人くらいで暮らしとる。あれが食べもんの配給所。週三回、日を決めて配っとる」

 トウジは、おおらかな口調でレイに周囲の環境を説明して聞かせる。シンジは浮かない顔で二人の背後に佇んでいる。

「先生、こんにちは」

 通りがかりの妊婦が立ち話をするトウジに声をかけてきた。トウジは気さくな態度で顔見知りとの会話を始めた。

「おお、松方さん。もうすぐやったな。無理したらあかんで」

 松方と呼ばれた女性は、大きくなったお腹を抱きかかえるようにして立っていた。

「先生、その二人? グレーティトから預かったって子」

「まあ、そんなもんや。よろしゅう頼むわ」

「うん。それじゃあ失礼します」

「おう」

 妊婦が立ち去ると、レイが不思議そうな顔でトウジを見た。

「クレーディトってなに?」

「クレーディトっちゅうんは、ヴィレが作った支援組織のことや。支給だけやのうて、この村と他の村との交易も手伝うてもろうとる。ワシらの村だけじゃ、とても生きていけんさかいな」

 トウジの言う通り、積まれたコンテナの塗装にも組織の存在が伺えた。レイは線路の方に目を向け、そこにいる動物のことを尋ねた。

「あれはなに? 犬と形状が違う」

「うん? あれは猫や」

「猫?」

 白地に灰色の縞模様を持った猫が、列車の下に潜り込みくつろいでいる。その腹は大きく膨れ上がっており、今にも子供を産みそうな状態だ。

 レイは膝をついてそれを覗き込んだ。トウジはそれを見守る教師のように、後ろから語りかける。

「猫見んのも初めてか? 車輌の下を根城に十匹ぐらい住んどる。ここじゃ犬や猫もおるだけでうれしいもんや」

 トウジの家に到着した。その表札は錆びついたブリキで作られており、呼び出し鈴は電車の非常ボタンを改造したものだった。間に合わせのソーラーパネルが平屋の屋根に設置されている。復興途中の町並みは創意工夫と日曜大工で保たれているようだった。

「ここが、古いながらも楽しい我が家や。一軒家で贅沢させてもろうとる」

 そう言うとトウジは、威勢よく引き戸を引いた。

「ただいま! すぐ晩飯の支度するからな」

 二人に対する気遣いの言葉を聞いても、シンジは無表情のまま顔を上げなかった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 アルミ製の両手鍋を持ってトウジが居間に戻る。土間に隣接した畳敷きの部屋は、板の間のついた古風なものだった。

「え〜よっと。みんなお待ちどおさん。さあ、熱々のうちに食べるで。シンジ、お前も腹減っとるやろう。ちっとでも食わなあかんぞ」

 食卓の前に彼の義父とレイが座っていた。シンジは部屋の片隅で両膝を抱えたまま一人離れていた。終始無言の彼に対して、トウジは気さくな声で喋り続ける。

「まあ、ええわ。食べとうなったら、いつでもこっち来い。ええな?」

 トウジは人数分の碗に味噌汁をよそうと、両手を打ち合わせた。

「ほな、いただきます」

 彼の義父とトウジだけが声を発した。

 レイはプラグスーツ姿のまま畳の上に正座し、ゆっくりと湯気の立つ碗を口に運んだ。

「どや、旨いやろ?」

「口の中が変。ホクホクする」

 レイは両手で包み込むようにして持つ碗の中に、無垢な視線を落とした。白濁した汁の中には、里芋や椎茸と一緒に米が煮込まれていた。

「せや! それが〝旨い〟や」

 トウジが嬉しそうに答えると、義父が自慢げな表情を彼に向けた。

「ワシの娘は下ごしらえがしっかりできとるからな」

 トウジがのろけた態度でそれに応じる。

「ほんま、世界一の嫁さんや。会うたらびっくりするで」

 すると玄関の引き戸が開かれて、女性の声が響いた。

「ただいま、遅くなってごめんなさい」

「おっ、おかえり! 待っとったで」トウジが大声で応じる。「シンジ、分かるか? ワシの嫁さんや。委員長やで!」

 シンジは反応を示さない。そして間もなく、低い座卓を囲む家族の前に、赤ん坊を抱いた女性が現れた。

「連絡受けた時は信じられなかったけど、こうして目の前にいてもまだ夢みたい。久しぶりね碇君。綾波さんも」

 トウジの伴侶となったヒカリは快活な声で言った。髪型も服装も年相応のものになっているが、その表情には同窓生の面影が残っていた。

「違う。私は綾波じゃない」

 レイは無感情にそう答えた。

「なんや、違うんか? じゃあ――」

 トウジは少し肩透かしを食らった表情をしてから、ヒカリと顔を見合わせた。

「そっくりさんや」「そっくりさんね」

 二人が声を同時に発すると赤ん坊がぐずり始めた。レイは顔を近づけて、それをまじまじと見つめる。

「なに、これ」

「おう、ワシらの娘、ツバメや。かわいいやろ」

 トウジが我が子を抱くヒカリの方へ身を寄せる。

「人なのに小さい。どうして小さくしたの?」

「なんや、赤ちゃん見るんも初めてか?」

「産まれたときはもっと小さいの。赤ちゃんはどんどん大きくなるのよ」

 レイはヒカリが鷹揚に答えるそばから、人差し指で赤ん坊の頬に触れた。その行為を受け入れるかのように、ツバメが泣くのを止めた。

「これが、〝かわいい〟?」

 レイは、ツバメの表情と声を目の当たりにして、何かを感じたようだった。

「せやろう? かわいいやろう? なんせワシらの娘やからなあ」

 トウジが言うと、ツバメがまた泣き始めた。

「ああっ、ごめんねえ。大きい声出すからびっくりしちゃった?」

 ヒカリがあやす側から、トウジが大袈裟に猫なで声を上げる。

「すまんツバメぇ。泣かせてもうたかなぁ」

 そんな団欒の一幕があっても、シンジは自分の殻から出て来ようとはしなかった。

 その時、玄関の引き戸が叩かれて、誰かの来訪を告げた。

「お、大将のおでましや」

 トウジが反応すると、勝手知ったる様子で部屋に上がりこんできた人物が酒瓶を掲げて見せた。

「悪い。遅くなった」

「おおー!」

 手書きのラベルを貼った一升瓶を見て、トウジと義父が思わず歓声を上げた。その声量に呼応するかのように、ツバメの泣き声も大きくなった。すかさず、ヒカリが二人に釘を刺すように人差し指を立てた。

「シーッ!」

 

「なにしてるの?」

 居間から離れて授乳を始めたヒカリの元へ、レイが様子を見に来た。男たちは宴を始めたのだろうか、トウジの歌声が襖の向こうから漏れ聞こえる。

「赤ちゃんは、お乳を飲んで大きくなってくの」

 レイはその言葉を聞いて自分の胸に手を当てた。足元に置かれたランタンが淡いオレンジ色の光を灯している。彼女は黒いプラグスーツ姿のまま、畳の上に佇む。

「そっくりさん。あなたにはまだ無理よ」

 レイの所在なげな姿を見て、ヒカリが言った。

「分からない。綾波レイなら、どうするの?」

 レイは自分の胸に手を置いたまま顔を上げた。

「あなたは、綾波さんとは違うんでしょ? だったら、自分で思ったことをすればいいの」

 レイの瞳が見開かれた。今まで考えようともしなかった設問に、彼女はしばし無言になる。

「違って、いいの?」

 

「久しぶりだな、碇。相田だよ。相田ケンスケ」

 すっかり大人びて一人前となった同窓生は、俯いて動かないシンジの隣に、少し間を置いて座っていた。彼は落ち着きのある風体を備えていた。トウジが一人上機嫌で歌い、一段落すると二人の前に来てしゃがみ込んだ。

「そや、ケンスケや。お前を助けてくれたやっちゃ。ワシらもこいつのサバイバルオタクぶりに、随分と助けられた。こいつがおらんかったら、ワシらもとうの昔に野垂れ死にや」

 シンジは一向に反応を示さない。同窓生は口を結んで、互いに視線を交わし合った。すると、トウジの義父が一升瓶を床にドンと置いて、険しい顔をシンジに向けた。

「シンジ君! 無口はいい。だが出された飯は食え。それが礼儀だ!」

 白髪を短く刈り込み、丸い黒縁の眼鏡を掛けた男は、壮年の重みのある口調できつく言い放った。

「まあ、オヤジさん。無理に飯に誘ったワシもいかんかった。今日はそっとしとったってえや」

 トウジが義父に向き直って場を鎮めようとする。しかし、義父は背筋の通った声でなおもまくしたてる。

「しかしトウジ君。これだけ貴重な飯をもらっといて一口も食わんとは、失礼にも程がある。なあシンジ君!」

 義父が拳を握って膝を打つと、襖がさっと開かれてヒカリが仲裁に入った。

「お父さん、ツバメが起きるわよ。さ、後片付けして、布団敷きましょ。ほらあなた、そっくりさんと碇君の分も」

 するとケンスケが立ち上がり、うなだれるシンジの姿を見下ろした。

「いや、碇は俺が引き受けるよ。その方がよさそうだ」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 第3村の夜更けは、月明かりに照らされて青白かった。ケンスケはヘッドライトを点けずに、シンジを先導するように歩く。

「意外だったろ。トウジと委員長が結婚したのは。中学のときはケンカばっかしてたもんな。まあきっかけは、ニアサードインパクト。その後の苦労が二人の縁結びだ」

 復興途中の村を離れて文明の残り香を横目に、ケンスケは次第に田舎道となっていく方へ向かいながら、シンジに語りかける。

「碇、ニアサーも悪いことばかりじゃない」

 夜空には赤い光を纏う送電塔が回転しながら浮かんでいた。背後には格子状の傷跡を残した満月。その奇妙で超自然的な光景が、この世界では当たり前のように存在していた。

「この坂上ればもうすぐだ、碇」

 ケンスケは舗装されていない山道を慣れた足取りで登っていく。

「さ、着いたぞ」

 重機がひしめく空き地の先に、トタン屋根の建物が見えた。周囲には列車の車輌が無造作に散在していた。

「無人駅の跡地を利用したセルフビルドハウスだ。好きに使ってくれ。トイレはそこの車輌の奥だ。燃料を取ってくるから先に入っててくれ」

 

 シンジが建物の中に入ると碧眼の女と目が合った。式波・アスカ・ラングレーは、狐色の髪に雫を滴らせて、赤裸々な姿のまま柄杓で水を飲んでいた。

「ふん、私の裸よ。ちっとは赤面して感激したらどうなの?」

 アスカは突然の来訪者にも動じることなく、むしろ正々堂々と正面を向いて、シンジにその細い線を晒した。

 シンジは硬直したまま何も言わなかった。アスカは柄杓を水瓶の蓋に叩きつけて、吐き捨てるように言う。

「ったく! ケンケンもこんな鬱陶しいヤツ拾ってきて物好きね」

 ケンスケが裏口から戻った。アスカは仁王立ちで裸を隠そうともしない。

「ただいま。ああ、先客だ。しばらくうちにいると思う。諸事情あって式波は村には顔を出せないんだ」

 ケンスケは手にしたバスタオルをそっと掛けてやり、アスカはそれをさも当たり前のように体に巻いて小言を口に出す。

「別に、リリンが多くて鬱陶しいだけよ」

 その時、シンジはアスカの首に巻かれた黒い帯状の物に気づいて、息を飲む。脳裏に蘇ったのは、自分の代わりに犠牲となったカヲルの絶命する瞬間だった。

「うっ! うはっ、うえぇっ」

 シンジはその場で嘔吐し、うずくまった。アスカは冷徹な目で少年の様子を見下ろす。

「DSSチョーカーにだけ反応ありか」

 

「ケンケンそいつを甘やかし過ぎ。そんなの自分で拭かせなさいよ」

 雑巾で床の間を拭く家主に対して、アスカは携帯ゲームをしながらきつい態度を取った。彼女は下着姿の上にミリタリージャケットを羽織っただけで、首元に赤いスカーフを巻いていた。

 室内は雑然としているが、整理整頓が行き届いており、工具や小物類が所狭しと並べられていた。

「碇は今、食べないし、自分から何もできない。よほど辛いことがあったんだろう」

 ケンスケは、手を汚すことにも苦労を見せない態度で、淡々と作業を遂げる。

「そんなのいつものことじゃない。そうやって心を閉じて誰も見ない。こいつの常套手段でしょ。放っときゃいいのよ。どうせ生きたくもないけど、死にたくもないってだけなんだから」

「碇、今はそれでいい。こうして再開したのも、何かの縁だ。好きなだけ頼ってくれ。友達だろ」

 ケンスケはマグカップを持ってシンジの側へ戻った。シンジは屈み込んだ彼と視線を合わせようとしない。そこに、ケンスケの優しい言葉だけが、流れる。

「俺は碇が生きていてくれて嬉しいよ」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 ツバメが小さな寝息を立てて眠っている。

「うーん……分配長、あんたが気に病むことないで」

 隣の部屋で寝言を言うトウジの元へヒカリが近づいた。彼女は跳ね除けた布団を掛け直してやり、優しく囁いた。

「毎日ご苦労さま。おやすみ、あなた」

「おやすみって、なに?」

 レイが襖の隙間から顔を出してヒカリに問いかけた。ヒカリは、ある種の母性的な形容で、それを言い表した。

「そうね、みんなが安心して眠るためのおまじない。おやすみ、そっくりさん」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 アスカは必要最低限の衣服を身に着け、布団の上で寝返りを繰り返していた。赤いプラグスーツが干物のような状態で部屋干しのまま放置されている。

「はあ。もういいかげん、寝る真似も飽きた。いつになったら寝られるんだろう」

 十四歳の姿のまま、エヴァの呪縛によって時を止められたアスカは、重いため息を吐いて仰向けになると、虚ろな目で天井を見据えた。

 同刻、シンジは胎児のようにうずくまって涙を流していた。鈴虫の鳴き声が響く夜だった。同室で眠るケンスケの耳にも、その息づかいは届いていた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 翌朝。第3村は清々しい一日を迎えた。

「あ、おはよう」

 朝食の準備をしていたヒカリは、足音に気づいて振り返った。

「おはよう、ってなに?」

 レイは障子の隙間から台所を覗いて、ツバメを背負いながら鍋に向かうヒカリに聞いた。

「そうね、今日も一緒に生きていくためのおまじない? おはよう、そっくりさん」

 ヒカリはすっかり目覚めた快活な声で、寝癖だらけのレイに言った。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 シャッターが開け放たれて薄闇に陽の光が差した。シンジは資材置き場のようなガレージの片隅で、鉄のきしむ音に身じろいだ。

「ケンケンはどんな日でも六時起床。もう仕事に出てる。朝飯はそこ。さっさと食え!」

 アスカがミリタリージャケットに手を突っ込んだまま、ぶっきらぼうに言い放つ。彼女が用意したのは固形のレーション二つ、それだけだった。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

「えらいピチピチタイトな格好の娘さんだねえ」

 作業着に身を包んだ第3村の住人が、プラグスーツの少女を囲んでいた。

「先生の奥さんから頼まれたそっくりさん。今日からよろしくとさ」

 農作業に従事する四人の女性たちのうちの一人が、水田のあぜ道で新参者の着任を告げた。それを聞く三人は、車座になってレイを見上げていた。

「そっくりさん? 何やら訳ありそうな名前やね」

「班に入れて大丈夫かい?」

「働けりゃなんでもええ」

 皆が、ちぐはぐな格好の娘に対して意見を言い合う。レイは直立不動で、長靴、軍手、腕カバー、農帽子に白手ぬぐいのほっかむりと、お仕着せの装備を整えた状態でそこにいた。

「働く? 命令、ならそうする」

 レイは自分の意思を持たないアンドロイドのような口調で言った。

「命令じゃなくて、これは仕事」

 最初に彼女を紹介した女性が答える。

「仕事って、なに?」

 レイの抑揚のない調子に対して、各々が陽気に答える。

「なにって、なんだろうねえ?」

「考えたこともないわ」

「まあ、みんなで汗水垂らすってことかね」

 水田のあちこちに人の集まりが出来上がっていた。凪いだ水面に森の稜線が映り込む風景。そこでレイは、自分の内面に芽生える何かを感じ取ろうとしていた。

「汗水……」

 

「三本の指で軽く。そう、まっすぐ上から、深くに置いてくる感じ」

 農婦の指示に従ってレイは田植えの作業を開始した。弓なりになった棚田に、三人で横並びとなり、手植えで泥水の中へ苗を差し込んでいく。

「ぎゅっと持たない。指は添えるだけよ。まあ、あとは慣れるしかないかね」

「ほらあんただけテンポ遅いのよ。みんなと合わせな」

「うん」

 レイは真剣な眼差しで作業を続ける。左手に持った苗の束から一つ一つむしり取っては、水の中へ並べていく。作業を重ねていくうちに、自然と額から汗が流れ出し、それが頬を伝って雫を落とした。

「これが〝汗水〟」

 レイは実感を込めて口にした。その直後、ぬかるみに足を取られてバランスを崩してしまう。

「あ、あっ!」

 水しぶきを上げて派手に転んだレイは、澄んだ瞳を見開いて空を仰いだ。

「これが〝仕事〟」

「あはは、せっかく植えた苗が」

 麦わら帽子の農婦が泥だらけのレイを覗き込む。

「しょうがないね。ほら、手を貸しな」

 赤い帽子をかぶった女性もレイの元へ近づく。そして失敗を吹き飛ばすかのように全員で笑った。

 

 引水のせせらぎで採れたての野菜を丁寧に洗う。農婦の一人がねぎらいの言葉を皆にかける。

「ご苦労さん。今日もなんとかノルマは賄えたね」

「これ、初日からよく働いてたから特別だって」

 レイの隣で農作業を手伝いに来ていた女の子が言った。髪を横で結って桃色のワンピースを着ている。レイは自分に差し出された新鮮なカブを見て、疑問を口にした。

「こんなとき、何を言えばいいの?」

「ありがとう」

 女の子はさっぱりとした口調で言った。乳歯が欠けていて、じゃじゃ馬のような表情をたたえている。

 レイは、その言葉の表面をなぞるように繰り返す。

「ありがとう……」

 その時、農婦の一人が威勢よく立ち上がって、皆に言った。

「さ、みんな風呂に行くよ」

 その言葉を聞いたレイは興味を際立たせて、とっさに顔を上げた。

「風呂って、なに?」

 

 共同浴場はレールの上に置かれた列車を改造したものだった。車輌そのものは脱衣所にされており、その横に併設されたトタン造りの建物に湯船があるようだった。

 海水浴場の更衣室を思わせる外観に、記念湯と書かれた看板が掲げられていた。夕暮れに染まる村の風景を背に湯気が立ち昇っている。

 列車の車輌は2ドアで、男女別の入り口に仕立て上げられていた。班ごとの時間割りが黒板に掲示されている。そしてこちら側の看板には、装飾付きの文字で「新生湯」と描かれていた。

 レイは「女」と記されたドアの前に立った。そこから先が脱衣所になっているようだ。

「これが、〝風呂〟」

 浴槽はブルーシートに覆われた木組みのものだった。複数人で足を伸ばせるほど十分に広かった。レイは見様見真似で浴槽に入ろうとするが、その格好を見た農婦からもっともな指摘が入った。

「あんた、服のままは困るよ」

 プラグスーツを脱いで湯船に素肌を浸したレイは、今まで体験してこなかった行為に身を委ねる。

「風呂って不思議。LCLと違って、ポカポカする」

 むき出しの角材とベニヤ板にトタン屋根。レイは白熱球の灯るその建物の隙間から、黄昏時の空を眺める。

 薄暮の空に赤い格子状の傷跡を残した月が浮かんでいた。レイは自分の置かれた状況を再確認し、それ自体を問う。

「私、命令がないのに生きてる。なぜ?」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 薄暗い倉庫のような部屋の片隅でシンジはうずくまっていた。アスカの用意した朝食――固形のレーションは、手つかずのまま残されていた。そんなシンジの背中に、アスカは辛辣な言葉を浴びせる。

「黙って隅っこに寝っ転がって、自分は辛いってアピールしたいだけでしょ。掃除の邪魔。マジ、うざい」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 診療所の引き戸を開けると、子供の声が聞こえた。

「ああ、ママじゃない」

 レイは、その子供に続いて出迎えてくれたヒカリの方を見た。

「おかえり、そっくりさん。お仕事ご苦労さま」

 レイが返事をする前に別の声が聞こえた。

「遅くなってごめんなさい」

 出口へ向かって子供が駆け出した。まだ四歳ぐらいで腰の高さほどの背丈だった。

「あ、わーい! ママ」

 脇目も振らずに直進する子供を避けて、レイはヒカリの元へ歩み寄る。

「いい子にしてた?」

「うん!」

 親子の会話が交わされて、母親が息子の手を取った。

 ヒカリは、その様子を遠巻きに見守っていた。レイも振り返り、戯れる二人に目を向けた。

「いつもありがとう、ヒカリ」

 じゃれる子供に袖を引っ張られながら、母親がヒカリに礼を言った。

「いいのよ。こういうのはお互いさま」

 ヒカリが返すと、母親は温和な表情を息子に向けた。

「さ、家に帰ろう」

「うん! さよなら」

 快活に子供が腕を振ると、ヒカリも振り返した。

「はい、さようなら」

 するとレイは、立ち去る親子から視線を外して、ヒカリに尋ねた。

「さよなら、ってなに?」

 ヒカリはレイの顔を瞥見し、再び親子に視線を戻した。

「そうね、また会うためのおまじない」

 出口へ向かう親子が、手を取り合い離れていく。

 レイは、その光景を見て、もう一度尋ねる。

「あれは、なに?」

「そうね、仲良くなるためのおまじない」

 そう言うとヒカリは、カブを抱えて佇む少女に、そっと右手を差し出した。

 レイはプラグスーツに包まれた右手を、そこに重ねた。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 シンジの塞ぎ込んだ態度に、アスカが痺れを切らした。

「もう、うんざり」

 彼女は赤いプラグスーツ姿で、シンジの横たわっている場所へ近づくと、仁王立ちになった。

「それ、私らもしんどいんだけど」

 シンジは頭を抱えてうずくまっていたが、上から勢いよく責め立てられた拍子に、少し顔を上げた。すると、アスカの首元のDSSチョーカーが目に入り、たまらず嗚咽を漏らした。

「――うっ」

「また吐くか」

 アスカはテーブルの上のレーションを掴み取ると、シンジを強引に仰向けにさせた。

「ガキが! こうして飯を食わせてもらうだけで、ありがたく思え!」

 相手の胸ぐらを掴み、レーションを口に押し付け、罵倒を浴びせる。アスカは感情的になっても、理性を失っているわけではない。彼女は彼女なりに強く生きようとしているだけだ。さもなければ見捨てられて終わる。それが伝わらない者にはこうするしかないのだ。

 アスカは自分の想いを吐き出すように、一気にまくしたてる。

「まだあんたはリリンもどき、食べなきゃ生きていられない。だから食え! こちとらずっと水だけだ! 何も変わらない体になる前に、飯のまずさを味わっておけ! バカガキ! そうやって何もしないのも、自分がまた傷つくのが嫌ってだけでしょ! どうせ暇なら、せめてあのとき、なんで私があんたを殴りたかったのかぐらい、考えてみろ!」

 残りのレーションを掴み取り、シンジの口にねじ込む。アスカは無抵抗の状態でされるがままの姿に、蔑むような目を注いだ。

「あんた、メンタル弱すぎ。どうせやることなすこと裏目に出て、取り返しがつかなくなって、全部自分のせいだから、もう何もしたくないってだけでしょ。親の言いつけとはいえ、その程度の精神強度だったら、そもそもエヴァに乗らないで欲しかったわ」

 そう言って、シンジの体を乱暴に突き放したアスカは、その場から離れた。

 赤いプラグスーツの背中が見えなくなるまで、シンジはじっとしていた。そして突然、身を起こすと、そのまま部屋から出ていった。

 アスカはそれを引き止めずに窓から見ていた。想定の範囲内。それ以上でも以下でもない。答えを出すのは彼女の役目ではない。

「一人で拗ねてろ。ガキ」

 

 第3村の周辺に広がる文明の跡地にシンジは足を踏み出した。目的地などはなく、ただ自分の居場所がないだけで、本来的には歩く必要すらもなかった。

 重機が山積する荒廃した場所を通り、工場の廃屋、電線の多く引かれた道路を経て、やがて線路にたどり着いた。シンジは、あてもなくレールに沿って歩いた。するとトンネルを抜けた先で、不思議な光景に出くわした。

 朽ち果てたビル群を対岸に望む湖畔だった。石灰岩のように白一色の地面と、対照的にターコイズブルーの鮮やかな水面が印象的だった。爆心地のように何もかもが倒壊している風景の中で、ただ一棟だけ縦長の立方体が、崩れかけの状態で残っていた。

 シンジは、天井の抜けたコンクリートの壁の内側で膝を抱えた。その施設は、湖にせり出すような状態で設置されていて、抜けるような景観が一望できた。

 だが、シンジはそれを見ようともしなかった。そして、温泉ペンギンの群れが湖に棲み着いているのでさえ、シンジは反応を示さなかった。

 アスカは、壁の後ろに隠れて彼の様子を観察していた。夕暮れ時になり茜色の空になると、アスカは無言でその場を立ち去った。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

「ただいま。あれ、碇は?」

 ケンスケが仕事を終えて戻った。アスカは背を向けて携帯ゲームをしていた。

「家出した」

「そうか。今は一人にしておくのが、最適解かもしれないな。家出先は?」

 ケンスケは驚きもせずに、悠然とした態度で受け入れた。アスカはゲームを続ける。

「北の湖の廃墟」

「ネルフ施設の跡地とは、それも縁か。レーションは?」

「無理やり食わせた。しばらく持つでしょ」

 アスカは気のない素振りを見せた。ケンスケは寝床の上であぐらをかく彼女の背中に言う。

「ありがと、式波」

「別に、あいつのためじゃない。自分勝手に死ぬのは、この私が絶対に許せないだけよ」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 波打ち際の音が風に乗って聞こえている。

 青白い月が格子状の傷をたたえて、いやに近い場所で自転している。

 シンジは虚ろな目をしたまま、孤独な廃墟で夜を明かそうとしていた。

 生きているのか死んでいるのかも分からない状態で、眠ることも起き上がることもしないままに。

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

「私の名前?」

 レイは農作業を終えて風呂に来ていた。仕事仲間の農婦が、頭にタオルを乗せた青髪の少女に、穏やかに提案する。

「うん。いつまでも〝そっくりさん〟というわけにもいかんからねえ」

「先生の話やと、自分の名前を忘れとるそうやけど、じゃったら自分で新しく付けたらどうなの」

 もう一人の細身の女性が言った。レイは覇気のない表情で、言われた事を聞き返す。

「名前、付けていいの?」

 

 ※ ※ ※ ※ ※

 

 翌日は雨だった。

 レイは黒い傘をさして白いレインコートを羽織っていた。じゃがいもの入ったボウルを抱えて線路沿いを歩く。列車の下では数匹の猫が雨宿りをしていた。

 その途中に、灯りの点いた車輌を認めて、足を止めた。入り口に図書館という表札が掲げてある。その中に人の気配があった。

 車輌の中に入ってみると、数人の子供や住民が静かに本を読んでいた。向い合せの長椅子が閲覧席として使われていた。細長い列車の中央を仕切るように本棚が設置されている。

「本……。碇君の言ってた?」

 レイは昔の記憶から、本という言葉を思い出した。傘を畳んで雫を振り払おうとしたとき、じゃがいもが転がって床に落ちた。

 すると本を読んでいた女の子が立ち上がって、元の場所にじゃがいもを戻してくれた。

「拾ったから返すね」

 女の子は洗い場でカブをくれた時と同様に、さっぱりとした口調だった。桃色のワンピースに水色の長靴を履いて、飴玉のようなボール付きの髪留めで髪を一つに結んでいる。

「ありがとう」

 レイは彼女に教えてもらった言葉を返した。

「読む?」

 女の子は小脇に抱えていた本を両手に持ち替えて、レイの前に差し出した。レイは赤いボーダーシャツの可愛らしいキャラクターの描かれた絵本に視線を落とした。

「ありがとう」

 

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 北の湖の廃墟と呼ばれた場所にも雨が降っていた。

 むき出しになった鉄骨やコンクリートが雨に洗われていく。

 その施設の床の下、無数の支柱に支えられた空間では、多くの温泉ペンギンが雨宿りをしていた。

 

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 アスカは仰向けに寝転がって、ベッドの上でパペットに語りかけていた。

「私は一人。これまでも、これからも、ずーっと一人。それが当たり前なのよ、アスカ」

 赤い服を着た女の子の人形で、スカートの裾には〝ASUKA〟と刺繍されていた。

「はっ!」

 家の外で物音がした。アスカは枕元からハンドガンを引き抜いてベッドから跳ね起きた。

「誰?」

 物陰に身を隠したアスカは、銃を構えて出入り口の様子を伺う。ガラス越しに傘のシルエットが見えた。

「私」

 その正体は、あっけなく判明した。アスカは安堵の息を漏らして、肩の力を抜いた。

「初期ロットか。いま鍵を開ける」

 緊張を解いてベッドの上に寝転がったアスカは、興味のない素振りで携帯ゲームを始めた。片膝を立てて足を組んだため、ミリタリージャケットはほとんどはだけた。

 レイがその横に来て、目的を口にする。

「碇君、ここにいると聞いた」

「ここにはいない。目下、家出中」

「そう。なら、捜してみる」

 レイは黒いプラグスーツ姿だった。あいかわらず平坦な口調。

「教えといてあげる。私たちエヴァパイロットはエヴァ同様、人の枠を超えないよう、設計時に抑制されてる。非効率な感情があるのもそう。人の認知行動に合わせてデザインされてるだけ。あんたたち綾波シリーズは、第三の少年に好意を持つように調整されてる。今の感情は、最初からネルフに仕組まれたものよ」

 携帯ゲームを操作しながら、アスカは淡々と語った。雨の音が絶え間なく続いていた。レイはその言葉を聞いても表情を変えない。

「そう。でもいい。よかったと感じるから」

「そう。なら、勝手にすれば。あんたの好意対象者は、ネルフ第2支部N109棟跡よ」

「ありがとう」

「あいつの所に行くなら、そこのレーション持っていって。そろそろ限界だから」

 アスカは業務的な口調で、そう付け加えた。するとレイが、意外な質問を返してきた。

「あなたはこの村にいて、仕事をしないの?」

 アスカはその問いを聞いても、動じることはなかった。

「あんたバカぁ? ここは私がいる所じゃない。守るところよ」

 

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 雨上がりの空に虹が出ていた。シンジは何も見ようともせずに、じっと廃墟で膝を抱えていた。

 記憶の断片が急に蘇り、青髪の制服姿の少女が、そこにいるような気がした。

「碇君」

 レイがシンジの元を訪れ、その背中に話しかけた。

 シンジは再び俯いて、無反応を貫こうとする。

「拾った物は返す。教えてもらった」

 レイは塞ぎ込んでいるシンジの傍らに、黒い小型の機械を置いた。旧式の音楽プレイヤー〝SDAT〟と書かれた機体にイヤホンが巻かれていた。

 シンジはレイが立ち去ろうとした瞬間、それを手で払い除けた。SDATが乾いた音を立てて地面に転がった。

 レイは、先ほどと同じ動作で、今度はレーションを置いた。

「また来る」

 そのままレイは返事を待たずに、SDATを拾い上げてシンジの前から姿を消した。

 荒涼とした景色の中にシンジだけが取り残された。湖畔のさざなみと廃墟と月光。無情にも時間は流れ続ける。

 夜が深まると、シンジはそれまで頑なに維持していた姿勢を解いて、レーションを貪り始めた。自分の存在を消してしまいたい状況であっても、体だけはそれを求めた。

 

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 第3村は自然の恵みを享受しながら、生活と復興に邁進していた。

 日はまた昇り繰り返す。淡々と過ぎていく日常の中で、人は人の数だけ多用な生き方を模索していた。

 レイは仕事を通じて色々な人と出会い、様々な経験を重ねた。そこにいる人々や、そこにある物事を追い求めながら、素直に何かを感じ取る日々が続いていた。

 シンジは海底に沈んだまま復活を諦めたような態度で、時間の流れを無視するかのように過ごしていた。そんな状態の彼の元へ、レイは幾度も幾日も通い続けた。

 トウジやケンスケは、自分のやるべきことに向かい合い、現実を生きていた。レイは新しい仲間や経験に囲まれて、発見に忙しかった。

 時間は誰に対しても等しく流れる。

 アスカは変わろうとしないシンジを観察し、そして何も言わずに立ち去るのだった。

 

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 新しい設備を導入した診療所で、ケンスケは動作チェックを行っていた。複雑な動きを可能とするマニピュレータを実装した診療台だった。

 トウジは、その設備の前に屈み込んで、薬品のチェックを行っていた。

「シンジな、一人にしといて大丈夫か? あのまんまじゃヤバいと思うで」

 トウジはバインダーに挟んだ書類に目を通しながら言った。

「今は放っておこう。碇には、そいいう時間が必要だよ」

 ケンスケはマニュアルを片手に、モニターをチェックしながら答える。

「けどな、ケンスケ。お前シンジに、ちと冷たすぎんか?」

「心配のし過ぎは互いによくない。帰ってくるよ。信じて待とう」

 ケンスケの言い分を聞いて、トウジは立ち上がり、真剣な眼差しを薬品の容器に向けた。

「はあ、せやな。早ようシンジも、この村になじんでくれりゃええんやがなあ」

 ケンスケはそれに対して何も言わなかった。

 

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「碇君はなぜ、村に戻らないの?」

 レイは夕日に染まる湖のほとりで廃墟に入り浸るシンジの背中を見ていた。

「碇君も、ここで何もしてない。あなたもこの村を守る人なの?」

 シンジは膝を抱えて座っていた。この村に来てから、もう何日もそうやって過ごしていた。

「守ってなんかいない。何もかも僕が壊したんだ。もう何もしたくない。話もしたくないんだ。もう誰も来ないでよ! 僕なんか、放っておいてほしいのに!」

 シンジは悲痛な叫びを交えて胸の内を吐露した。

「なんでみんな、こんなに優しいんだよ」

 鼻をすすってうずくまるシンジに、レイが声をかける。

「碇君が好きだから」

 シンジは、はっと息を呑んで振り向いた。

「ありがとう。話をしてくれて。これ、仲良くなるための、おまじない」

 レイは裏表のない双眸でシンジを見つめ、そっと右手を差し出した。

 シンジは熱いものが込み上げて来る衝動を堪えきれずに、嗚咽を漏らして泣いた。

 

 ケンスケの拠点に出戻ったシンジは、少し申し訳無さそうな表情をたたえていた。

「ふん! 家出は終わり? 初期ロットのおかげ?」

 アスカは携帯ゲームをしながら、横柄な態度で接する。歓迎することも、拒絶することもなく、あくまで現実問題として。

「うん」

「泣けるだけ泣いて、すっきりとでもした?」

 アスカは画面から視線を外して、横目でシンジを睨めつけた。暗がりに佇む彼の変化を、見定めるかのように。

「うん」

 シンジが静かに、だが確かな返事をすると、アスカは携帯ゲームに視線を戻して言った。

「そう、動けるようになったんだったら、ケンケンの役に立て」