シンジは断絶した記憶から突然、覚醒した。
恐る恐る目を開けると、茫漠とした視界が徐々に晴れて、ベレー帽の女の子が不安そうに覗き込む姿が映った。
「鈴原――サクラさん?」
シンジが声を発すると、彼女は急に腕を振りかぶって、シンジの頬を思い切り引っ叩いた。
「勝手に出ていって、あんだけ乗らんといてゆうとったエヴァに乗りくさって、アホ! アホ! 碇さんのドアホ!」
サクラは一方的にまくし立てる途中で感極まり、シンジの胸にすがって泣き伏した。
「女房か、あんたは」
アスカは壁にもたれかかり、呆れた表情でそれを見ていた。
白い壁と医療器具に囲まれた手術室のような内装だった。シンジは特殊なマニピュレータを備えた診療台の上に寝かされていた。無意識に首元に手が伸びて、そこに何も装着されていないことを知る。
「脱走者の確認を終了。現時刻をもって、BM-03の監視拘束の任を引き継ぎます」
ストレッチャーに載せ替えられて運び出されたシンジを見送りながら、サクラが言った。アスカは無言で腕を上げ、了承の意を示した。
「ここに、引き渡しのサインを、式波戦時特務少佐」
サクラが小型のタブレットを上官に差し向けると、アスカは通路の壁にもたれたまま、険のある目を向けた。
「DSSチョーカーは?」
「未装着で問題ありません。全作戦の終了時まで、耐爆隔離室において保護します」
サクラが業務口調で返答した。その時、シンジを乗せたストレッチャーは戦闘服姿の人員に引かれて、広い要塞のような船内を進み、隔離施設へと近づいていた。
『監視対象者BM-03が第2チェンバーに到着。点火システムを準備』
通路にアナウンスが流れる。
「勝手に外された以上、そのほうがより確実な処理方法というわけね」
アスカは上層部の意図を、そのように汲み取った。
「マギコピーには、チョーカーの作動履歴が残っていました。それは、もう一人のパイロットが目の前で爆死した状況を示しています。そんな体験をして、なおヴンダーに戻ってくる。なぜですか?」
サクラが疑問を挿んだ。
「さあ、私には葛城艦長が乗艦許可を出したほうが、はるかに謎ね」
アスカは腹に据えかねている部分があるようだった。しかし、彼女は固執した態度を見せずに、自分の手土産を差し出した。
「担当者が撮影した第3村の記録と、鈴原からの私信」
「お兄ちゃんから?」
封筒を解いて、サクラが我が子を抱く兄と家族の集合写真に目を移すあいだに、アスカは無言でその場から離れた。
『第2チェンバーの完全閉鎖、および緊急点火システムを開始。監視対象者BM-03の隔離処理、完了しました』
通路には機械的なアナウンスの声が流れていた。そこに紛れて、サクラのすすり泣く声が微かにアスカの耳に届く。
「下船したクルーのカバーは問題なし。新2の現場はいけてるから、改8のパワーシフト組み込みを予定どおり開始して。各主砲塔と艦外作業の状況は?」
艦内を高速で進む輸送ポッドに乗って、マヤは内線を通じて指示を飛ばしていた。その乗り物は壁に渡されたレールを伝う電動式の単線のような代物だった。
『第4砲塔の交換および、艦尾主砲の増設作業に問題なし』
『艦外ドックのエヴァ関連作業は、トータルで約三パーセント遅れています』
ヴンダーは宇宙空間に出ていた。重力の均衡するラグランジュ・ポイントの中で、各セクションが作業に追われている。無線の返答はその内容を示していた。マヤが、そこに発破をかける。
「スピード優先、チェックの五分の一は巻いていくわよ」
『はい』
旗艦司令室は重い空気に包まれていた。操作系の中枢を担うブリッジでは、各々が自席に着いたまま、寡黙に食事を行っていた。
『N1ロケット、第二次接続作業、再開五分前』
作業進行のアナウンスが流れる。その時、北上ミドリはゲル状に加工された栄養食の並んだプレートをつつくのを止めて、暗い声を出した。
「式波少佐の回収はいいですよ。けどなんであの疫病神も一緒なんですか?」
「放置してまたネルフに利用されるよりはマシだろう」
後半、語気を強めたミドリの意見を聞いて、青葉シゲルがたしなめるように言った。彼の席はミドリよりも一段高い位置にある。
「エヴァ搭乗を画策時には、総員に無条件発砲許可が出ています。今度は安心じゃないっすか」
痩せ型の若い男性オペレーター、多摩ヒデキが言うと、ミドリが食ってかかかった。
「そんなの言うだけ番長でしょ。前に脱走した時、艦長は処分できなかったし、今やその信用ナッシングなんですけど」
可動式のアームを挟んで言葉が飛び交う中で、日向マコトは黙々と食事を続けていた。
「相手は子供です。躊躇も理解します」
最前列の操舵機器の前で立食していた長良スミレが振り向いた。ミドリは引かない。
「その子供がニアサー起こして、私の家族皆殺しにしたんだけど」
「ニアサーは結果だ。彼の意志じゃない。艦長も贖罪に心身を尽くしている」
マコトが毅然とした口調で断言した。先輩として、複雑な経緯を汲み取っての発言だった。
「そうだな。加持がヴィレを託した人物だ。ワシはどこまでも艦長を信じる」
高雄コウジは年の功を覗かせて穏やかな口調で答えた。が、ミドリは承服しなかった。飲料の入ったパウチに視線を落として、心の内を吐露する。
「みんな身内に甘すぎ。誰のおしっこかも分からない、この再生水と同じ。清めれば済むと思ってる。そんなわけないっしょ」
『新2号機のJAパーツとの接続テストに問題なし。予定どおり左腕の独立連動システムの作業を開始してください』
エアロックを開いてアスカが踏み込んだのは、ドーム状の薄暗い空間だった。布板を渡しただけの簡素な橋の先には隔離施設が置かれていた。剥き出しの単管で組まれた階段や無骨な屋根が増設されていた。それは工事現場に見られるような足場であり、その施設自体が急造品、あるいは臨時のものであることが伺えた。
「爆薬が増えてる。信用減ってるのね。私たち」
アスカは、およそ四メートル四方の立方体に近づき、外観を眺めた。正面はガラス張りでアルミのフレームで補強されており、中から蛍光灯の光が漏れている。そのため、業務用の冷蔵庫のような冷たい印象を与えた。アスカはその正面に、躊躇なく立った。
「ただいま」
空気圧が解放される音と同時に自動ドアが開いた。すると中から、桃色のプラグスーツに身を包んだ女が飛びついてきた。
「おかえりー姫。道中ご苦労さま。ベリー会いたかったよん」
真希波・マリ・イラストリアスは、アスカに密着し、頬を擦り寄せ、満足そうな表情を浮かべた。アスカはそれを押しのけて、部屋の内部に向かわせる。
「もう、何よこの部屋! 断捨離どころか、本増えてるじゃない」
三畳ほどしかない部屋のスペースが書物で埋め尽くされていた。棚も二段ベッドも本がぎっしり詰まっているため、人間が入れるスペースは一畳ほどしかない。
「本は人の英知の集合体。古今東西、全ての本を読み漁るのが、私の叶わぬ夢よん」
アスカは備え付けの小型テーブルに添えられた椅子に無理やり座って、携帯ゲームを始めた。マリはその首元に腕を絡ませて耳元で囁いた。
「By the way, ワンコ君との進捗どうだったん?」
「べつに、興味ない」
アスカは、あっさりと答えた。
「ほう。年頃の男の子は眼中にないと」
電子音を鳴らしてパズルゲームを繰りながら、アスカは突き放すように言う。
「ガキに必要なのは恋人じゃない。母親よ」
『全補給艦から本艦への搬入作業は全て完了。補給艦内のロジスティクス担当者は、速やかに退去』
紫外線に近い波長の光に満たされた白い空間で、ミサトは加持の残した意志と向き合っていた。軍衣で正装しサングラスを身に着け、硬い表情で立っている。〝すいか〟と書かれたパネルが、六角柱の箱に明示してある。そして同じような箱が、いくつもそこに保管されていた。
背後で可動式のブリッジがリフトアップして、リツコがそこに現れた。
「クレーディトの独立運営と、エヴァ両機の全リミッター解除を承認するサインをこれに。葛城艦長」
リツコが差し出したタブレットの上に、ミサトが手袋を外して手の平を重ねた。生体認証が走り、電子音が鳴った。リツコが無線で指示を出す。
「艦長および副長両名の承認を確認。マヤ、始めてちょうだい」
『了解です。副長先輩』
仕事を済ませると、二人は可動式のブリッジに乗って、円柱型のストレージエリアへと下りていった。
「ミサトが一人の時はいつもここ。艦長室のプレート、こっちに替えた方がよさそうね。簡単にはリョウちゃんへの想いは断ち切れないわね」
ブリッジの支柱は巨大な縦穴の中心にそびえ立っている。そのため、二人の視界は三百六十度全方位を埋め尽くす倉庫群に満たされていた。その倉庫一つ一つには、さきほどミサトが眺めていた六角柱のコンテナが、機械によって振り分けられ格納されていた。
「加持は関係ない。ここが落ち着くだけよ」
「このブロックが、本艦本来の運用目的だったわね。あらゆる生命の種の保存。その守護のための半永久稼働可能な無人式全自動型の方舟が、AAAヴンダー本来の姿」
「加持にとって、人類という種の存続は大した問題ではなかった。補完計画の巻き添えで消えてしまう多様な生命体を、自然のままこの世界に残すことが最重要だったのよ」
「そのためには可能な限りの生命の種を地球圏外に避難させる。その計画実現を目指し、建造中だったこの艦をネルフから強奪。人の力では補完計画の阻止は、不可能とも考えていたものね」
「でも、最後は自らの命を捨ててサードを止めた。自己矛盾で自分勝手に死んだ、超迷惑な男よ」
二人は長い長い縦穴を下りて、傾斜エレベーターに乗り換えた。ミサトは帽子とサングラスと襟で表情を隠し、見せない。
「結果、彼はここにいない。ならば私は、この艦をネルフ殲滅、人類補完計画阻止のために使わせてもらう」
「あなたの復讐のため?」
リツコが言った。
「いいえ。命を残す方舟ではなく、命を救う戦闘艦として」
「母親のセリフだと、実感あるわね」
リツコは腕を組んで流れゆく車窓を見るともなく見ていた。
「私にそんな資格、1ミリもないわよ」
エレベーターが到着し、金属的な音を立てて扉のロックが解除された。
「艦長および副長は、現在航海艦橋」
ミサトとリツコがヴンダー中枢に戻ったのを確認して、シゲルが状況を更新する。
『ネルフ本部が移動を開始。屹立中の黒き月を伴い、旧南極爆心地跡地に向かい進行中と思われます』
アナウンスが外部の環境を伝えている最中、ミドリはブリッジを移動する二人の上官を睨みつけていた。
※ ※ ※ ※ ※
富士の嶺に巨大な、それも桁外れに巨大な構造物が突っ込んだ。黒き月は聖杯を思わせる形に変化しており、傘歯車のような鋭い凹凸を持つ不気味な姿となっていた。浅黒い岩肌は古来の月からかけ離れたものであり、いくつものクレーターがその表面に穿たれていた。
黒き月を牽引していた浮遊体が、その上方に浮かんでいた。それがNERV本部。青白い岩肌の逆三角錐の下に光の輪をたたえ、天井部にあたる平面にいくつもの鋭い突起を備えていた。
「フォースインパクトの要とされる黒き月の復活。そして、アダムスの器の贄となる、雌雄もなく、純粋な魂だけで造られた汚れなき生命体――アドヴァンスド・綾波シリーズの再生。人が人を救済する人類補完計画。その傲慢の行き着く先が、これとはな」
NERVの副司令官・冬月コウゾウは、無機質な部屋で量産された人為物の姿を虚ろな目で見ていた。レイと同じ姿の女体が、裸で冷たい床に座している。だが、その個体に意識や自我があるのか、果たして定かではなかった。彼女たちは、瞳孔の開いた目を虚空に向けて、細かく痙攣しているだけだった。
冬月はエヴァンゲリオン第13号機が保管されている場所へ赴き、ゲンドウに近づいた。
「第3の少年がヴィレに戻った。綾波タイプナンバー6は、無調整ゆえ個体を保てなかったようだ。自分と同じ喪失を経験させるのも、息子のためか、碇」
ゲンドウは何も言わなかった。赤い空間で十字の台座に磔にされている、エヴァをじっと見ていた。
※ ※ ※ ※ ※
「どうやら精神的には安定してそうね」
シンジは与えられた部屋で、机に向かいS-DATを眺めていた。その状況を監視モニターで確認したリツコが、冷静な声でミサトに聞いた。
「――で、葛城艦長。仮称、碇シンジ君は、どうするの? 息子と同じく、一生会わない気?」
「艦内保護で十分。私が面会する必要はないわ」
ミサトは壁に向かいリツコと目を合わせずに、突き放すように言った。
「DSSチョーカー、未装着のままでいいのね?」
リツコはあくまで現実問題に関わることだけ述べる。
「罪は自分の意志で償おうとしなければ、贖罪の意味がない」
「ミサト、そうして格好つけてても、本心では戻ってきてくれたって喜んでるでしょ」
直立不動で腕組みをしている同僚の女性に、リツコは言った。
「情動で動くと、ろくな目に遭わない。あなたの経験よ」
そう付け加えると、ミサトは口を割った。
「いつもながらきついわね」
「ミサトを甘やかすと、ろくな目に遭わない。私の経験よ」
EVANGELION
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Thrice Upon a Time